はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

人間はいかにしようとも「死」を商品として

製造することができないことだけは知っている。「死」が人間の「商品化=記号化」を免れていることだけは知っている。だから人は本能的に自殺に憧れる。
 脱記号化としての自殺において人間は、商品化を免れた「生」そのものを生きることが可能であるかも知れない。社会が自殺者に与えなかった「生」を自殺によって回復することがあるいは可能かも知れず、また自殺という行為によって自殺者の過去における「生」の欠如をリアルに指し示すこともまた可能かも知れない。その場合自殺は社会への明らかなアンチテーゼとなり、その故に資本主義は自殺を本能的に恐れるのである。
 かように自殺とは人にとって魅力的な行為である。「生」を与えられなかった人間の行使しうる自由の究極形である。
 だがこれを読んでいる自殺志願者がいるとすれば、自殺のこれらの魅力を顧ずに私は言わせていただく。
 
他にも「生」はあるだろうと。
 
 決して自らの商品化を求められない、自然のままに存りうる「生」が今後の人生においてどこかで存在しているだろう。もちろんそれは即座に指し示すことはできないかも知れない。しかし、他にも可能な「生」についての無知に基づいて自殺を行なおうとするのであれば、自殺者の得ようとする「生」は決して得られるものではないと私は思う。その死は単なる無知の表明にすぎない。
 今日は思いつめられた方のブログにたまたま出くわし、自殺を思い止まるように短いレスをさせて頂いた。私も自殺の甘美さに誘われる時がある。しかしそのときに私は自らが出会うかもしれない「生」について絶望をするほどに、じつは自らの「生」について無知なのかも知れないと振り返っている。私は自らの出会いうる「生」を知り尽くしうるそのときまで(それはおそらくは自然死するときだろうが)、自殺による「生」の獲得を思い止まろうと思っている。
(以上を平たく言えば「いつかはええことあるよ」←結論)

死にたくなったら、他の生き方を探せばいい。