はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

小説「ふかがわばすたーず」(ニートスズキ作)を読む(第3回)

二.世界観の叙述
1 叙述の必要性
 上手い小説には作者が描きたい世界観が明確に叙述されている。その世界観は明文化されている場合もあれば、暗示に止まっている場合もある。しかし暗示に止まっている場合でさえ、その暗示に作者の叙述が深く刻まれているのであり、いずれにせよ世界観について作者がその叙述に手を抜くということはありえない。読者は作者により刻まれた世界観を自らの思考空間に自然と受け入れる(ないしは批判的に了解する)ことにより作品をスムーズにかつ味わい深く読み取ることができる。小説には世界観の描写が不可欠である。
2 本作品の場合
 「ふかがわばすたーず」の場合、世界観の叙述が欠落している。強いて言えば数か所ほど、わずかに書かれてあるに過ぎない。
 それは決して本作品が世界観のない小説であるという意味ではない。むしろ世界観は明確に存在している。しかしそれを作者は何故か暗示にさえ示そうとはぜず、叙述を書き渋っているのである。(自分の世界を見せたがらないように。)作者は作品の世界観を自らの脳内から解き放とうとはせず、登場人物の行動の叙述だけで書き済まそうとしているのである。
 「ふかがわばすたーず」は東京の東陽町を舞台としている。
 東陽町は全国的には無名の町である。我われ一部のマニアの間ではニートの聖地として知られているが、同じ江東区内に隣接する深川とはその知名度の差で歴然としている。
 その証拠として東陽町に所在しながらも深川の名を冠している企業や学校が当たり前のように存在している。この現象に対し、単に知名度の違いによるものという日常的な解釈をせず、悪の組織「フカガワ」の陰謀によるものだと考えたなら、そこはすでに「ふかがわばすたーず」の世界なのである。
 東陽町は深川に侵食されていた。それも人々には気づかれないような巧みなやり方で。深川の東陽町侵略を企む悪の組織「フカガワ」は秘密裏に結成され、地下世界で隠然と侵略を続けていた。その結果東陽町にあるはずの郵便局が「深川」郵便局となり、高校までも「深川」高校と称されていた。このままでは東陽町全体が深川に吸収されてしまう。危機感を抱いた乙女たちは園子を中心に「ふかがわばすたーず」を結成し深川の侵略に立ち向かうことになるが・・・
 「ふかがわばすたーず」を形成する世界観はいま述べたとおりである。秘密裏に続けられる侵略に気づいた乙女たちに敵は容赦なく襲いかかった。作品は攻めかかってくる敵と彼らを退治する乙女たちとの対決の模様が綴られている。
 ところで、この世界観は一読しただけではすぐには浮かんでこない。二度読みを行なってようやくその輪郭が現われてきたものである。
 作者は対決の場面や“ふかがわばすたーず”の人間関係を叙述を中心に据えている半面、肝心の世界観についてはほとんど何も触れていない。作品のモチーフとなっているフカガワの東陽町侵略についての記述は直接的には園子の短い演説で一度触れられている程度であり、あとは登場人物のセリフの中に園子の演説をコピーしたような形で断片的に触れられているだけである。もちろんフカガワと“ふかがわばすたーず”との局地的な戦闘がたびたび行なわれてはいるが、それはあくまでも戦闘そのものであり、侵蝕され続ける東陽町の情景は何一つとして描かれないまま作品は終わっていったのである。作品の中でさえ東陽町は本当に侵略されていたのか、作者の筆からは結局何も知ることができないまま消化不良のうちに作品を読み終えるしかなかった。
3 欠如の影響
 世界観については、あと二か所指摘したい場面がある。
 作品の冒頭は、主人公の哲子が高校の入学式の日にブルセラショップを経営する父としばらく揉めている場面であった。このシーン自体は面白く読むことができたが、深川の東陽町侵略というモチーフとは直接の関係がないシーンである。世界観を重視した場合、このシーンは第一章と位置づけ、その前に侵略されゆく東陽町を示すエピソードや情景描写をプロローグとして入れて欲しかった。ブルセラショップという非日常的な空間が冒頭に出てきたことにより、私は「ふかがわばすたーず」がてっきりブルセラショップを中心とした話なのかという錯角を覚えてしまった。
 終盤の北海道編・高知編も世界観の叙述の点から指摘しうる。
 フカガワの陰謀を打ち破った乙女たちは、東陽町に向けられかねない新たな火種を潰すために未見の敵と立ち向かうべく遠征の旅に出かける。この場面は東陽町に平和が訪れていることがもちろんその前提となるが、それまでの東陽町にさえ叙述の上からは侵略の重圧を感じることができなかった分、平和になった開放感に包まれたはずのこれらのエピローグから受けた印象がそれまでのシーンとさして変わることがなく、肩透かしを受けたような感じがした。
 このように書くべき世界観をイメージしながらも作者がそれを叙述しなかったことにより、「ふかがわばすたーず」は読者に肩透かしや消化不良を与えてしまったのではないかと思う。それが小説としての面白さを感じさせない要因となっているのではないだろうか。構想があってもそれを書き切らなかった分だけ惜しいと言わざるを得ないのである。