はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

小説「ふかがわばすたーず」(ニートスズキ作)を読む(第4回(終))

三.場面の叙述
1 非日常の愉快さ
 「ふかがわばすたーず」には「東陽ライス」という創作料理が出てくる。これは深川飯に対抗したもので、深川飯におけるアサリとご飯の容量比率をそのまま逆転したものである。だから当然に茶碗の中にはあさりしか見当たらない。そこにヨーグルトをかける。一言でいえばゲテモノである。
 「ふかがわばすたーず」にはこのように、日常では考えられない物ごとやネタがごく当たり前のように現われる。東陽町にある伊藤園の自販機はじつはアジトへの秘密の入り口であり、近所のマンションは巨大ロボットに変形して夕方の空を飛んで行く。携帯電話がタイムマシンになって過去と未来を自由に行き来する。舞台はあくまでも現在そこに在る東陽町である。深川と東陽町の覇権争いを描くだけならなにもそこまで非日常の物ごとを出さなくてもよかったかもしれない。作品のテーマに沿う限りの必要最低限の設定だけでも話としては成立しただろう。
 しかし私はここに作者のこだわりと心意気を感じる。作者が退屈な日常をいかに楽しく生きようとしているか、その模索の結晶をこれらのネタの数々に見出すのである。平凡な日常の日々にほんの少しの非日常が加わることによって世界はちょっとだけ楽しくなると、この作品は教えているように思う。一杯の東陽ライスを頭に描くことで日常の生活がほんの少し楽しくなる。
 日常生活の舞台の中にあるこれらの非日常こそ、私がこの作品のなかで最も好きなところである。このような非日常は作品のなかにふんだんに詰まっている。
2 叙述不足
 ただ残念なことは、この作品がネタの詰め込みに走りすぎたことである。ネタを詰め込むことを優先して個々の場面の叙述を簡単にしすぎたのである。
 たとえばフカガワの手によってアジトが水攻めにされる場面では、哲子が地下室に水が入り込んで水死してしまうことを恐れるわけだが、その哲子のうろたえようが叙述からは伝わってこないのである。
 作者はこう書いている。
「『ちょちょ、ちょっと先輩?逃げなきゃ逃げなきゃ』
私はそう焦って言いながら手を振って猛然とアピール。
今すぐにも逃げ出したい、ここは地下室だし、水が入って来てからでは逃げ出せない。
って、今さっき懸念していた所じゃないですか!
まさしくその水攻めですよ〜〜。フカガワのアジト殲滅の陰謀じゃないでか。」
これから死ぬかもしれないという人間の言葉としてはあまりにも冷静すぎる。ここはもっと筆を入れて欲しかった。
 もちろんその後でじつはアジト自体が潜水艦だったという設定が待っており、作者がそこに重点を置いていることは明らかである。しかし潜水艦の有りがたさは哲子の悲鳴に筆を入れることによって際立ったはずである。潜水艦という非日常の愉快さは面白かったが、心理描写の不十分さによって際立つべきものが際立たなかった。惜しいとしか言いようがない。
 また本来ならば書かねばならない叙述があまりにも簡単に片付けられすぎている。
 木場の角乗り対決が終わり、フカガワは滅んだ。角乗り対決の際にみかかの代役として造られたアンドロイドみかかとみかか本人とが初めて対面する場面で、作者はみかかの内面の葛藤を描く代わりにこう書いた。
「みかかさんは自分の複製であるみみかの元へと歩み寄り、マジマジと見つめたりつんつんしたりしている。
 二人がにっこりと笑顔を見せた。どうやら今のでわかり合えたようだ。奥が深い。」
ここは明らかな手抜きである。
 「ふかがわばすたーず」の世界はたしかにアンドロイドの世界ではある。潜水艦を動かしていたのがイクルミのクローンであり、主人公の母親も元は過去の世界に置いてきた園子のクローンである。だからみかかにクローンが居たとしても決して不思議ではない。だが頭では分かっていても心の奥底では納得しきれないものを自らの複製人間に感じないと言えば嘘になるだろう。アンドロイドと見つめ合って笑いあったのであれば、その「奥が深い」心の動きを、哲子が見たみかかの様子を通じて克明に描写して欲しかった。
 もちろん作者の重点が木場のコスプレ対決であったことはたしかである。作者はうれしいかな制服熟女を登場させている。しかし、イベントやネタの脇を固めるあのような場面についても筆を入れるべきではなかっただろうか。
3 前後不覚
 ところでアンドロイドみかかはその後、何の音沙汰もなく以降の話には出てこなかった。また、主人公の母親がクローンであることはただ一言触れられただけである。フカガワの刺客である菊地姉妹の登場シーンでは彼女たちについての説明がなかった。何よりも奇怪だったのは、一度滅んだはずのフカガワが何の脈絡もなく登場し、ふかがわばすたーずの面々もそれを当然のこととして受け止めていることである。再登場の経緯については一言も触れられていなかった。
 「ふかがわばすたーず」にはこのように重要なはずの要素がただの一言で片付けられたり、読者を前後不覚に陥らせる記述がいくつか見受けられた。フカガワの再登場についてはおそらく原稿用紙の枚数が余ってしまいあとで追加したエピソードなのだろうが、前後関係は整えて欲しかったと思う。
四.さいごに
 ここまで、「ふかがわばすたーず」について私が気になった点をあげてみた。端的に言えば個々の場面や世界観について叙述を増やして欲しいというものであった。今回の落選は技術的な敗北であった。(自重しない男にしては自重しすぎた叙述や描写だ。)
 その叙述があまりにも簡潔すぎたことよって作者が力を入れていたであろう重要なシーンが空振りに終わり、全体としてエピソードの羅列になったような感じもしないでもない。もっと字数を膨らまして個々の場面を引き立てる必要があったと思う。ネタが豊富にあっただけに、惜しい気がする。
 「ふかがわばすたーず」は奥が深い。主人公の母親はフカガワのボスだったわけだが、彼女は園子のクローンである。園子はアンドロイドを作る能力を持っている。その力を主人公の母親も持っていたはずだ。そして本人とクローン人間とがそれぞれアンドロイドを作り出しては深川と東陽町の覇権争いを行なってきたのである。しかもバスターズの人間は乙女とはかけ離れた黒い心の持主ばかりである。同じキャストでブラックユーモアが一本書けるのではないかと思わないでもなかった。
 強烈なキャラが深い謎を残しながら終幕した「ふかがわばすたーず」。小説としての欠点は見受けられるが、それでもまだ読んでいない方には一読をお勧めしたい。
(おしまい)