はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

何かをやるのに、理由なんか要らない。

理由は行動の中に自ずと含まれているはずだ。
だから、理由は後付けでいい。

もっとはっきり言えば、理由なんかない。

なくて結構。強いて言えば「それが営みだから」。
 
昔の偉い人はこう言いました。

「男たるもの、一度はニートをやれ」と。

(“男なら 一度はニートを やってみろ”)
ここらへんは「浪人しないで何が人生だ」
牧野剛著、1996年)に通じますな。
俺はもう今のニートっぽい生活に飽きてきたが。
とはいえ、六月の試験まで身動き取れねえか。
あと10点で合格だったからな。日商一級。
油断せずにさらに上を目指すことだ。
余力があれば税理士の科目合格(簿財)にも挑む。
頑張れば、実りの多い年になるだろう。

ニートか、懐かしい響きだ。

なにしろ俺は八月(一級の合格発表)まで
ニトニトを見ないと決めたからな。
それどころかネットも断ったし。
(ブログは勘弁だお。たまに書く。)

ニートっぽい生活をしてみて、

内面視野が広がったように思う。内的視野。
旅に出て自分の知らない世界を知るのも
一つの在り方であろうが、家にじっとしながら
己のなかの未知の領域に気づくことも
視野を広げることになるのだろう。

働かないことで気づく世界もある。

それが何であるかは、逆説的ではあるが
働くことで説明できるものであろうと思う。
中に居たままではいまの私が居る世界を
説明することは難しい。ちょうど、
現代人が現代史を説明しにくいように。

「けっきょく働くんかい」と心の声。

そら、飯食わなあかんし。
四の五の言えんて。