はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

メモ:私のオナニー日誌(2008年11月上旬)

以下に“おかず”を書き留める。

1日(土):

一日二回。「人妻パラダイス」の玲子さん(36歳)。私の定番。ベッドに横たわる彼女の太もものアップで抜いた。次は、AVサンプル「義父に犯されて… 美嫁いぢり 白石沙里奈」。ぷにゅむにゅで見つけたが、これは新たな定番になるかも知れない。フリーター時代は3,000円以上の買い物が高額だったが、浪人になってからは1,000円からが高額の基準になっている。だからAVはサンプルで何回か試しに抜いてみて、ずっと抜けると判断してから買うようにしている。ところで、近ごろは出費を抑え気味だ。最近、短歌朗読のCD(「現代短歌朗読集成」)を見つけたが、これが8,000円ときた。とても買えないので、好きな句集を自分で朗読して気持ちを紛らわせている。24歳のときに出会った「金槐和歌集」により一層馴染むようになった。短歌はややもすれば自分を演じたような句に接して面食らうことがしばしある。だが実朝の句にそのようなケレン味はない。他の歌人から借りたモチーフが多いが、それが心情の素直な表現になりきっている。最近はとくにそう感じるようになった。

2日(日):

一日二回。AVサンプル「あさ美先生の誘惑授業 小川あさ美」。ぷにゅむにゅで入手。女教師ものは私の定番だ。しばらく経って、もう一度抜きたくなったので、AVサンプル「これで最後にしてください。 華村美里」を見た。じっくりと太ももを映しているシーンがいい。質感がよく出ている。ところで、動画家ニートが親から随分とへこまされたようだ。親が世間の指標で自分を見ていたのはショックだっただろう。「早く働け」という言葉は単なる生活力の問題だけでなく、人間の存在意義に関わるものを含んでいる。「働かない者は人間失格」と暗に言われれば、当然に悲しい気持ちになる。「そんな人間に何を頼むか」と家を出て行けばこの問題は一応は解決する。だが、それでは言い負かされたに等しい。だから負けないために籠城をする。しかし、何かのきっかけで同じ議論がぶり返す。親に勝つためには家を出て行かなければならない。だが、それが思うツボとなる。かくしてニートはループの内に居る。

3日(月):

AV「エロ頭イイ・星野梨緒」。この作品はしばらく敬遠していたものだ。母校の現役学生にさえ嫉妬を覚えるようになって久しい中、あえて女子大生に挑む。私にとってはかなり勇気の要ることだった。意外にも今日はしっかりと勃起した。今までなら若い肉体が映し出されても股間さえ立たなかったが、ようやく慣れてきたのだろう。まともに見たのはこれで三度目である。私は20代の女性では基本的には抜けない。それは心の奥底にある「どうせ相手にされない」という恐怖心と諦めの感情によるものなのだろう。一方で小学生や熟女では抜ける。肉体の最も成熟した年代が空白となり、その周辺の年齢層を対象にオナニーをしている。いまさら若い者に興味を抱いてどうなるのかと思いながらも、自分の自信のなさはさっさと克服したいと思っている。

4日(火):

AVサンプル「これで最後にしてください。 ゆいな」。私は二の腕フェチなのだとつくづく思う。太ももフェチでもあるが。結局、街中でじっくり見たいものをアダルトビデオで見ているのだと思う。それ以上の領域については目にしたことさえないのでフェチになりようがない。

5日(水):

AVサンプル「無国籍凌辱 アジアに犯された女 真琴」。近ごろはレイプものを抵抗なく見られるようになった。世間の女はみな私を仲間はずれにする。その恨みを晴らしているのだろう。わたしはそういう心理でレイプものを見ている。よくて結婚要員、決して恋愛対象にされることはない。そういう見た目に私は生まれた。女は自由に私を排除する。人を選ぶ権利とは残酷な言葉だ。客体にされた人間にも心がある。自由を叫ぶ者に嘆きの声は聞えているのか。見えざる排除のなかで、私のような男は隠れて小声を叫ぶしかないのか。男は斥けられたうえに悪者にされる。今や男に生まれることは受難だ。(正確に言えば喪男か。)泣かされて、恨み咽いで、壁を見る、私を笑う、女が浮かぶ。嘆く者の主体性を言語化して排除する者にぶつけなければならない。レイプものを見てうさを晴らしている場合ではない。肉体の疎外を言語化したい。

6日(木):

末永遥の昔のグラビア(週刊少年マガジン2000年第10号)。当時13歳。周期的にロリで抜きたくなる。マガジンはグラビア部分のみを保存している。

7日(金):

一日二回。近所の道を歩いていた中学生で妄想。次は、夏場の小学生を思い出して抜いた。中学生のほうはスカート姿だった。抱きしめた太ももに顔を押し当ててスカート越しに匂いをかいでいた。小学生のほうは見たそのままの姿で抜けた。小高い坂道をランドセルを背負って歩く少女は半ズボン姿で、日に焼けた素足に汗が照りかえって艶やかだった。半ズボンは少女のおしりの形をよく表わしていた。うしろ姿は坂道を歩く躍動感があった。発育具合から察すると小学5年生くらいだろう。もはや半ズボンでは目のやり場に困る年頃である。ところで、今日は母方の祖父が亡くなって丁度20年目に当たる。私は小学5年生だった。抜いてから気づいたが、まさか20年経って“同い年”の女の子でオナニーをするとは思いも寄らなかった。私の場合は同年代から振り降ろされた格好である。今の言葉で言えば喪男だ。同年代が空白となりながら“同い年”の少女に萌えている。世間ではロリコンは悪者呼ばわりされているが、喪男を排除する者が居るからロリコンが生まれるのだろう。肉体的には明らかに同年代の女性のほうが美しい。だが喪男に縁はない。だから妄想の世界の中でも責めて“同い年”の女の子、私を対等に扱ってくれる女の子を求めたくなるのだ。喪男は何も悪くない、ただ等しさを熱望しているのだ。(美人やイケメンを求めてしまうのが人の性である。そのことは責められない。喪男だって同じだから。だが、自由恋愛と称してそれを正当化する言説は別物である。喪の気持ちも知らずに恋愛を語るな。)

8日(土):

AVサンプル「義父に犯されて… 美嫁いぢり 白石沙里奈」。騎乗位に激しく興奮する。近ごろニコニコ動画で「アイスペース」というものを見つけた。アニメの女の子と仮想空間でデートができるそうで、私もやってみようかと思う。ただ、そういうときに限ってパソコンの調子がおかしい。ネットを控えているのはそのためでもある。せっかく無料でプレイできるものを、惜しい。(もっとも、“家庭生活”を営むと課金される。)日常生活で異性と戯れている者にはアイスペースのような仮想空間は必要がないだろう。彼らから見ればまた嘲笑の対象になるだろう。しかし、仮想空間を先行できることは喪男の誇りである。文化は喪から生まれる、それをオタクは証明した。喪男の試みは3次元世界からの訣別を以て完成する。技術的にはまだまだ未熟なところはあるが、アイスペースの誕生にはそのような希望を感じる。社会の一線から外れた者が新たなものを生み出す、そのことはニートにも当てはまる。氷河期時代に就職の機会を得られなかった者は、仕事以外のものを価値観にしなければ絶えず“負け”続ける。だが、電脳空間の開拓はニートに可能性を与えた。今後は「ひらきこもり」の世界がさらに進化するだろう。(まだまだ電脳空間は狭い。だから現実世界で働くことが絶えず課題となる。)現時点では親の負担になっている点でニートは分が悪い。しかし、「省力無限世界」(「電脳空間」を言い換えてみた)開拓の最前線をニートは行進している。ニートは労働者の対語である。それ以上に3次元世界(浪費社会)の対語である。ニートが拵えた箱舟に人々が押し寄せる日を私は確信している。

9日(日):

一日三回。AVサンプル「義父に犯されて… 美嫁いぢり 白石沙里奈」。昨日の騎乗位が忘れられず、もう一度。次は、AV「寧々先生の誘惑授業」。新たな定番となりつつある。最後はAV「女教師発情 すぎはら美里」。3年前に購入したが、買って正解だった。今でも離せない定番となっている。今日は何度も股間が立った。久々の性欲日和である。結局はオナニーしかやらないのだが、性欲だけは無くならない。

10日(月):

一日二回。AV「美人課長の憂い 立花瞳」。私とは縁もゆかりもない美人で抜きたくなった。次は、AVサンプル「これで最後にしてください。 ゆいな」。手首から二の腕まで舐め尽したい。なぜかは分からないが、近ごろは一日に何度も勃起する。じつは異性(性格に言えば三次元)への欲求を強く抱くようになったのは、三十歳前後からである。それまでは二次元至上主義者を自認していた。友人などは十代で異性への欲求を強く覚えたそうで、ファッションやダイエットに励んで大学時代に彼女を見つけた。友人に彼女ができたと聞いても、当時の私は実はうらやましいとも何とも思っていなかった。今にして思えば不思議であるが、貧弱な肉体に生まれたことで彼女をはじめから諦めていたのかも知れない。あるいは性欲の高まりが平均的な男性よりも遅れているのか。大学時代に異性への欲求が高まっていたら、彼女をつくることから逆算して行動していただろう。友人と同じように体を鍛えてファッションにも余念がなかっただろう。それだけのカネもあったし、学生としてのステータスもあった。それに何よりも時間があった。彼女を見つけることに専念していたら、就職もしていただろう。学生時代は悟ったような奴だった。就職する気は全くなかった。誇りや遣り甲斐によっては働くことは説明できない。労働が理性的に存在し得ない限り(“語りうるもの”でない限り)、働くことは死ぬまでの時間潰しに過ぎない。その考えは今でも変わらない。しかし“生きるため”という、何にも勝る動機を私は知らなかった。“彼女を見つけるため”という動機がこれに準じるとしたら、私は素直に就職活動をしていただろう。

付記:

本来は一か月分をまとめて掲載するつもりだったが、長くなったので分割した。やや喪男談義といったところだろうか。

関連(拙稿):

ぷにゅむにゅで抜いた、の報告(2010年6月)
http://d.hatena.ne.jp/harunobu77/20100702/1278059777