はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

危ないですかそうですか ほか

える・どらど

 大衆なんて言語化されていなくって、いつまでも劣後者。いじめっ子の役回りで、人権標語にもそう書いてあって、大衆をお白洲にかけたら、正義の金さん。
 申し渡されたのは、非言語化の刑。だって、言語化したら、必ず主体化するって歴史が証明してます。だから言葉を奪えば、ユートピアンの目には秩序ただしい一件落着。
 苦しみは言葉にしなければ、苦しみにならない時代。言語化を奪われたら人間あつかいされないのです。もちろん、それは大衆が慣習に甘えてきた結果なのですが。

言葉をください

 人権教育というものは、本当は、自分の存在を言語化するためにあるべきだと思うのですが、原罪をたたき込むことに精いっぱいで、それはかなり裏返しの封建主義で、だから卑屈な人間が生まれる。卑屈な人間は人を叩きやすいから、また人権教育の登場で、そういえばこの十年で自虐的という言葉が定着しました。
 言語化を手助けされれば、主体性が生まれます。それは政治的な自覚が芽生え、批判能力をもつということでもありますが、本当に主体性のある人間は、他者を叩きません。いまの人権教育も二十年前と同じように、大衆に言葉を与えず、ただ眠らせるためにあるようです。

第一歩

 昨日、NHKのひきこもり特集を少しだけ見たんだが、29歳の男が家を出てコンビニに向かうというシーンで、ちゃんとカップヌードルを買って帰ったんだよ。その時、俺は追い抜かされる、って直感で思ったね。
 俺はコンビニの店員に声をかけるのは雑作もないが、それはあくまでもそれだけだからね。彼は最初の一歩を踏み出した。あとは前進だけ、となると、いつかは追い抜かされる。時間の問題なんだ。それを直感して怖くもあったし、俺も負けちゃいられないし、彼を見習おうと思ったわけだ。

ジャックさん

 日の丸が裂かれたとき、軽蔑の心がわいてきたが、もはや怒る気力もなかった。何があっても驚かなくなっていたからだ。そして党首討論でこれを取りあげた人が、非正規労働者に冷淡であったことを思い出した。
 私は“非国民”になりたくはない。でも彼と声を合わせる気にはならなかった。

派遣村予報

 あれだけ派遣村が騒がれても、誰も正社員の特権を廃止しようとは言いださない。もっとも、特権とはフリーターからみた言葉。共有できる人が少ないのだから、はじめから議論にさえならない。
 だからどの党が政権についても、フリーターはいつまでもフリーターなのだと思わずにはいられないのです。

危ないですかそうですか

 何かに対して怒らなければならないのに、敵が定まらないから、憎しみだけが散って消えて、あとは何事もなかったかのように、存在さえしなかったように“思われて”、怒りをためるまでしばらく、何もしないで大人しく過ごしている。
 敵が分からないから、どうして怒っていたのか言葉にもできないわだかまりだけが残って。