はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

投票日のぼやき・無気力編

はじめに

 8月30日午後0時30分。投票日だ。票は朝のうちに入れてきた。報道では民主党過半数を超えて圧勝するだろうと予想されている。ちょうど郵政選挙の裏返しで、与野党がそのままひっくり返る形だ。
 政権交代には期待がある。民主党の政策にも、今すぐに実行して欲しいものがある。しかし、民主党の圧勝ムードに乗る気にはなれなかった。私の投票行動は下記に譲るが、民主党には妙な違和感を感じてきた。だから投票する気にはなれなかったのである。これも下記に示した。(今回の私の投票行動は、自民党に投票しないことにより、民主党を追認することである。)
 投票は8時に締め切られる。開票の結果、民主党の圧勝は確実だろう。ムードに期待しながら、違和感を抱えているのが正直な気持ちだ。小選挙区制はムードを作りやすいと言われているが、どこか白けた印象もある。しかし、生活者の一人として、民主党の政策を積極的に活かすつもりだ。書いていてずるい奴だと思った。だがこれが次の選挙への判断材料になるだろう。

とはいえ

民主党が政権についても、フリーターはフリーターのまんまだろうな。そこも民主党に乗り切れなかった理由だ。言ってみれば今回の選挙は、正社員のための選挙だ。改革の弊害とか格差とか言いますけど、フリーターはとっくの昔から格差を見ていたのです。格差と騒いでいる人を見ると、何をいまさら、という気がします。もちろんフリーターにとっての格差は、いつまでも正社員になれないということです。

比例区で死に票

 自民党に投票する気はないし、民主党には抵抗がある。でも政権交代は必要だ。それが投票前の私だった。共産党に入れるのもマンネリだし、白票を投じようかとも思ったが、どうせ票をすてるのなら、スキマ状態の政党(今回の選挙でもいくつかあった)に入れたほうが、ある意味では私の政治意思を表現できる。思い出したのは改革クラブだった。
 ぶって姫の入党工作に失敗し、政党要件のために不自然な形で入党させた西村眞悟氏。もとは参院院内会派が存続をかけて衆院で戦う。これだ。失礼ながら私の票をいっしょに持っていってはもらえまいか。これがひとつの民主党追認であり、自民党への弔辞でもある。まあ西村氏が仮に当選したら、また突出した行動を拝めるというもの。それに橋本元総理の愛人問題(中国人のスパイ女性を日本の首相が愛人にした問題)を追求した実績も忘れてはいない。
 私の一票はこうしてバクチの種となったわけだが、さすがは連合の元顧問弁護士。フリーターの労組入りを推進してくれるそうだ。もちろん議員一人では絵に描いたモチだが、カネだけ渡して(もちろん有難い話だ)身分問題を先送りした自民・民主・その他の政党に比べれば、優れた観点を持っていたということは付言したい。(後記につづく。)
改革クラブは今回の選挙で、西村眞悟氏をただ一人の候補として擁立していた。西村氏は比例代表・近畿ブロックからも重複立候補しており、選挙は事実上、西村氏への信任投票でもあった。)
(参照)
「 立ち止まって原点にかえる勇気! 改革クラブの出番。」より
http://www.kaikakuclub.jp/pdf/digest.pdf

日本をあきらめない

 民主党の言葉には、警戒せざるをえない響きがある。自民党でさえかなわないような、露骨なエリート感覚。甘い言葉で釣り上げておいて、そのくせ国民への尊敬心が欠如しているから、上からものを言っているようだ。大衆をどこか小ばかにして、それはつまり国民を下にすえて、上から指導を施す。もちろんただの直感だが、ニュアンスがそう感じさせる。
 指導というのは、ようは国民への支配だ。権力に酔いしれた者が、自らの意思を、あたかも何の摩擦もなかったかのように貫徹することだ。権力が完全であればあるほど、摩擦は見えなくなる。国民を小ばかにする者は、トップダウンの政策をとりやすい。だから大衆の要求はいつまでも可視化されないのである。国民のためといいながら、まずは国民を支配するところから始まる。支配である限り、批判は許されない。それがエリート意識であり、民主党の語感でもある。
 彼らに批判を受け入れる余地があれば、国民と政治家の関係は、形式的には対等となる。しかし、例えば岡田氏のように、国民を相手に「体を張って」いくことさえ公言した者もいる。(これが民主党の体質なのだろうか。)権力を握るまでは体を張る必要があった。これからは権力を使えば済む。彼はあの発言によって、国民への優位性を表明しただけでなく、権力による服従をも暗示したのである。
 権力に慣れた人間は、それまで権力にうぶであればなおのこと、権力そのものに酔いしれる。国民に対する謙虚さが消えうせ、もはや支配の対象としか見えなくなる。しかも民主党の場合、すでに選挙前からその兆候が現れていたように思えるのだ。国民は政治家との対等な関係を求めている。くれぐれも体を張られては困るのである。

愚民観

 郵政選挙のとき、岡田氏が党首として負けたのは当然だった。言葉のなかの愚民観が露骨だったからだ。押さえつけて言うことを聞かせる相手。それがエリートの国民観なのだろうと思った。発言の具体的な内容までは忘れてしまった。だが、「体を張って」という二文節だけは決して忘れられない。
 そういえば最近も菅氏が、「(郵政選挙のように)今度は国民の皆さんも騙されないでくださいね」と言っていた。江角マキコ氏を参考人招致しようとしたのは未納年金問題のときだった。もはや上から目線の自覚さえなくなっているのだろう。
 はっきり言えば、国民は自民党に退場を求めたのであって、民主党そのものを求めたわけではない。というくらいの謙虚さを、民主党の方がたにはお持ちになって頂きたい。

そういえば

 会計士浪人をやってたとき、簿記の先生がやたらに自民党を批判してた。先生によれば、会計基準を改定するとき、自民党が必ず抵抗勢力になるそうだ。また財界が、自民党が、邪魔をして、おかげで理論的な会計からはほど遠いものができてしまったと嘆いておられた。先生が民主党を応援しておられるであろうことは容易に想像できる。(先生は会計士。)
 先生のお怒りは、会計理論をちゃんと分かっているがゆえのものだろう。私は分からなかったから落ちてしまった。だから自民党への怒りを、この問題に関しては共有していない。むしろ、民主党のような、国を大切にしない姿勢に、つよい憤りを覚えていた。ルサンチマンアイデンティティーを鋭敏にさせる。フリーターの記憶が生々しいころだった。(もちろん、国を愛する自然な感情がそうさせたのだろう。ただ私の場合は、むしろルサンチマンに由来していた。)
 あのとき、会計理論をちゃんとマスターできていたら、今回の選挙で、私は民主党に投票したのであろうか。それはよく分からないが、政権交代を求める気持ちはより高かったのだろうとは思っている。

ちなみに

選挙区では無所属候補に投票した。いつもは共産党に入れるんだが、兵庫4区にはいかんせんいなかったもんでね。べつに支持者でもないのに、大学時代に資本論にかじりついていたから、惰性みたいなもんだ。まあ、神大に受かってたら民青に入っていただろう。いや、若かったからさ。いまの俺はまいん教の信者だ。そういえばまいんちゃん(福原遥ちゃん)、誕生日だったね。ハッピハッピバースデー。

さいごに

政治の話って大嫌い。救いがないから

後記(8月31日午前3時):

 西村眞悟氏が落選した。小選挙区では民主党の元職に破れ、比例区でも票を伸ばせなかった。思いつきだったとはいえ、一票を入れさせて頂いた者として、やはり寂しさがある。
 私が票を入れさせて頂いたのは、タブーになりやすい問題に、国会のなかで、正面をきって追求されていた姿が印象に残っていたからだと思う。少数政党に入れようと思ったときに、最初に浮かんだのが西村氏だった。
 西村氏が改革クラブに入られたことを、知る者は少なかっただろう。新聞の隅でようやく気づいたのを覚えている。それでも比例区で、しかも近畿だけで、5万票を集められたのはすごいことだ。いまごろ反対者が騒いでいるだろうが、好きなだけさせておけばいいと思う。
 西村氏の発言は、やりすぎだろうと思うものも多々あった。それに、思想的にも合わなかった。(私は共産シンパだった。)しかし行動の一つ一つが、個人的な利益を顧ずに、国を思う素直な気持ちから行なわれたことだけは理解できた。その意味で、稀有な政治家であった。
 二大政党制のはざまで、国会議員としての再起は難しいだろう。講演活動を中心にされるのだろうが、民主党への批判はこれからである。私は拉致問題で先頭に立たれた氏を思い出している。そして、橋本元総理の愛人問題を追及された氏を振り返っている。権力になった民主党を、氏の方法で追及されてゆくだろうと、期待している。