はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

(メモ)いわゆる弱者利権とニートの関わりなど

 利権は戦後日本の資源分配の一形態であった。利益集団が公的資源を権威的に配分することにより、所得再分配の機能を果たしてきた。しかし配分の基準が明確でなく、集団の有力者による私的判断が公的基準の代わりとなっていた。いわゆる丼勘定である。今後の資源配分は公的監査を担保とした公的基準により行なわれるようになるだろうが、フリーターやニートへの資源配分が社会保障によって十分に行なわれない場合、自らが政治的圧力と化し利益集団を形成する必要性さえ生じる。
 利権を手に入れるためには政治的な圧力にならなければならない。理論武装と成員の動因によって物心両面の戦術を展開しなければならない。強力な組織は統制された機構である。指導者を決定しなければならない。資源は指導者によって権威的に配分される。これは利権の性質に基づく。
 利権は公共財の私物化に他ならない。公的な目的を付された資源でさえ、私的機構を介することにより組織の存続と指導者の権力維持に用いられる。公的資源を公的な決定と監査を経ずに分配することで資源は私的な利権と化する。問題は、私的機構を介さざるを得ない公的課題の存在である。
 なお私的機構とは、民主的な手続による権力の交代が担保されていない組織をいう。この場合の民主的手続は組織内民主主義でなく、国民による直接制ないし代議制を指す。公的課題の解決を目した組織でさえ、私的機構として厳密に分類する必要がある。組織内権力の腐敗化について、国民に対して直接の責任を負わないからである。私的機構が国民に負う責任はあくまでも道義的・間接的なものである。
 民主的手続により選出された立法あるいは既存の行政組織が公的課題の解決に非協力的である場合、社会的疎外にある者が自らその解決に乗り出す他はない。方法は先に述べた通りである。公的課題の公的解決の欠如が私的機構の必要性を生み出す。利権は言うまでもなく公的資源の簒奪だが、公的課題の解決に協力的かつ有力な他者を見出せない限り公的意義を有する。但し私的機構の維持が目的化した場合、利権は社会運動にとっての鬼胎となり、権力の腐敗を招く。かかる組織は運動に逆作用をもたらす。
 運動の目的は公的な資源の確保と課題の社会的認知にある。公的課題の解決の必要性を公的諸機構に認めさせたうえで、確保した資源を公的な監査の対象とすることである。利権は最終的に監査に服する。その時疎外者は社会の成員として正しく認識されていなければならない。公的課題の認知が伴って初めて利権は監査に服することができる。
 利権は疎外者の名誉と生存のための必要悪としての性質を有する。しかし、最終的には公的な監査の対象と化す。もちろん、私的機構の維持のために自己目的化された支出、及び指導者の権力維持のための費用、そして他者と比して妥当性を欠く出費は廃止される。
 前置きが長くなったが、フリーターやニートが利権に預かることは可能か。生存権を脅かされている以上、資源を求める政治的な資格は十分にある。資源は社会保障により配分されることが望ましいが、利益集団による配分、すなわち利権を求めることも否定できない。フリーターやニートの団結は芳しくない。それでもフリーターの場合はある程度可能だろうが、ニートはほぼ不可能に近い。公的課題の存在にも関わらず技術的に組織化が難しい。それゆえに公的資源の確保が進まない。
 組織技術に欠ける集団は、本来充てられるべき資源を組織力に勝る他の疎外者や他の公的課題の解決に振り当てられる。かかる集団は利権全般の廃止を求めることで、自らについての課題に解決の糸口を求めることになる。いわゆる弱者利権の廃止論はこうして生まれる。利権の必要性そのものを判断する基準は、自集団の組織技術の有無である。ニートはそれに欠けており利権全般の廃止を支持するほうが有利になる。
 但し利権の廃止に満足せず、自らの問題を公的課題として認めさせることが必要である。他者の利権を廃して自らも倒れる。持たざる者どうしの戦いがネット上を中心に激しく行なわれている。社会保障にリアリティーを感じられない場合、この傾向は加速する。その先には、疎外者どうしの共倒れがある。

【要点】

私的判断が公的基準に勝っては監査にならない。問題はかかる基準の欠如にある。公的課題(所得再分配)を私的組織(利益集団)によって解決しようとする限り、基準の形成は先延ばしになる。これは利権全般に当てはまる。資源配分の一形態としての利権は過去のものになりつつある。今後の資源配分は公的な基準により行われる。基準はもちろん公表されなければならない。また基準の妥当性は絶えず議論の対象となる。

後記:

「久しぶりにメモ。備忘録だよ。情報のなかにあると酔ってしまう。それを少しでも和らげるために自分の考えをまとめる。これからネット右翼と民主シンパとの言い争いが激しくなるだろう。漏れはネット右翼には身分的な親近感があるが、主張に隔たりがある。政治的なことに関わっても救いがないから書きたくない。個人的な幸福しか考えられない小市民なんでね。それでも言葉酔いしないための足場は必要だ。つまり政治に関わらないために政治的なことを書く。そういう必要も生活のなかにはあると思っている。」