はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

ひとりごとならべ(2009年12月 その7)

「そういえば一昔前に、障碍者を天使や聖者と呼んでたな。美称を使ってるけど実は子供扱いだ。『子ども=天使』観の延長。」
「それに『純朴な人間』という捉え方は、人の内面の複雑さを無視している。そういう美化はおせっかいという他ない。美化は当然、他者がもたらすものであり、自らが望んだのではない。それに美化はそもそも、人のつながりとは対極にある。美化という関係から、人格どうしの一対一の関わりを見ることはできない。」
「今の草食系男子論で俺も聖者扱いだけど、心の中では肉食系だ。」
「だいたい、なんで仰がれなきゃなんないんだ。そんなことなら一発のセックスのほうが有難い。俺は、美化されたくて生きてるんじゃない。」
喪男にとって救いなのは、美化に乗っかる(同調する)奴がまだ現れていないことだ。美化に対する反発では喪男はまだ分裂していない。」
「しかし、幼女が天使なのはガチだけどな。そういうことにしといてくれ。そんなのは幻想だ、という突っ込みにさえ今は耐えられないんだ。もちろん、天使という言葉が内面の複雑さを捨象しきったものなのは分かっている。だがそこは、愛という言葉でこまかせばいい。彼女たちは、俺たちを愛するがゆえに天使だ。愛する、の次に(ように見える)が隠れているのは内緒だ。」
「誰かに対して『・・・の天使』と呼ぶ行為は、実は『余計なことを考えるなよ』という無言の圧力だ。私はよくまいんちゃんに使っている。あくまで俺を愛する存在。そこからぶれたら困る。」
「『私の障碍は個性だ』は通じるかも知れないが、『あなたの障碍は個性よね』はまず通じない。個性という言葉は他者との相互承認を前提としており、その関係性のなかで意味を持つが、生まれは個性では割り切れない。」
「障碍を個性と呼ぶ風潮は、額面通りに言葉を受け取るべきものでなく、障碍者が自らの障碍と共に生涯を全うするという決意表明の一つの流れとして捉えるべきである。」
「より完全な肉体への願望は生涯続くだろうが、限りある人生を今ある肉体によって生き抜くことで、生の積極性を獲得しようという志向に転換したのである。だから他者から個性と呼ばれると、心の底にある肉体への願望が否定されてしまう。」
「個性としての障碍観は自己表明のみが可能である。それは今という瞬間から死ぬまでの時間を捉え直す営みであり、人生観の変革でもある。」
「と私は当事者でもないが、ある類似性、生まれと身体の関係を強く意識してきた経験から、想像している。より完全な肉体への願望を、私は生涯持ち続けるだろう。」
「言うまでもなく、決意に至る葛藤は激しく、他者が“個性”という一言で片付けられるものではない。肉体への意思は、それほど単純なものではない。」
「将来の再生医療の発達のような不確かなものに過度の期待を抱くのではなく、いま確実にあるこの体で生き抜くということだ。」
「自立支援法の反対運動が盛んだった頃、自己負担額を述べる戦術がよく採られていた。窮状を訴えて国民の同情と関心を引こうとしたのだろうが、かえって逆効果だったように思う。月に3万円や5万円。それは10倍して30万円の税金が使われていたことを指す。もちろん重度の方はそれだけ介助費用がかかる。そこは理解しなければならない。」
「しかし、勤労者が苦しい生活の中から出した税金である。『当然の支給』、『当然の権利』はなかったのではないか。繰り返すが費用がかかるのは技術的な問題である。そこに批判を加えるつもりはない。あくまで認識が問題なのだ。」
「“当然”と言ってしまうと、税金を出す側の苦労は否定される。(もちろん法人税も勤労から生み出される)。受け取る側も配慮が必要だったのではないか。」
「もちろん、こうやって健常者を煽って障碍者と対立させるように仕向ける。それが立法者の意図だったのかも知れない。負担額をアピールすれば、その十倍の公金が使われていたことになる。一割負担は上手い制度設計だ。それによって障碍者への支給額が可視化される。」
「しかもそれを当事者自らが訴える。30万円などは特にリアルな数字だ。年収200万円以下で暮らす人が多い中で、この数字は特化して見える。窮状を訴える度に、支給額の多さが明らかになる。そして健常者との分断感が広がってゆく。実に巧みな制度設計だった。」
「そうこうしているうちに、私も生活保護の可能性が高まっている。反対運動の教訓として、公金を頂くときは決して“当然”の給付、とは言わないように心がけている。“税金泥棒”と呼ばれると、つい反射的に『当然のカネだ』と言ってしまいたくなる。それが人の勢いというものだろう。支払う側への配慮は、喧騒のなかで忘れ去りやすい。」
生活保護男さんは私に生活保護への道を示してくれた。その点で彼は恩人だ。だが、『今日のゼリーはみなさんの税金のおかげです。ありがとうございます。さて、ゲームでもするか。』あれは感謝ではなく挑発だ。彼も“税金泥棒”と言われて苛立っている。」
「勝手なもので、私は生活保護男さんを応援している。彼が私の将来の姿だからだ。少なくとも今はそう思っている。いざ生活保護を受け取ってしまうと、反対運動への違和を感じていなかったように振る舞うかも知れない。だから今のうちに書いておいた。」
「弱者同士の叩き合い。ネット上では極限状況が想定されている。生きるために資源を奪い合う。負けたほうは死ぬから、互いに優先順位を主張する。劣後したほうは事実上、死を宣告される。社会保障をめぐる争いはとくに熾烈だ。どちらが死ぬか。当事者の『生きたい』という言葉は、他者に『死ね』と響く。」
「実際の財政はそこまで酷くないだろうが、このまま不況なら決して架空では済まない。ネット民は少し気が早いように思えるが、それだけ死をリアルに想定している。」
「これなんかはまさにその典型で、『障害胎児は中絶してください』というスレがあって、ハンディキャップ板の定番だった。障碍者の誕生は健常者への課税圧力になる。それが議論の前提だ。ここは極限の世界だ。さっきも言ったように、誰かを生かしておいたら、誰かが死ぬ。それが私かも知れない。となれば私も健常者として振舞うだろう。」
「実際、中庸とは無縁の殺し合いだった。中立などありえない。障碍者の味方をしている余裕さえない。障碍者が死ぬか、健常者が死ぬか。しかし、ここまでの危機はまだ訪れていないはずだ。そう思っていたから書き込まなかっただけで、社会がスレに追いついたとき、私もここの健常者と同じようにしただろう。」
「それを差別として非難するのは簡単だ。しかしここは殺し合いの場だ。殺されないために汚い言葉を放つ。障碍者のほうも激しかった。『健常者は障害者の下僕だ。』あの言葉は今も響いている。障碍者にカネを渡せば、自分が死ぬかも知れない。ここでは極限状況が想定されている。どちらかが死ぬ。それが暗黙の了解だった。」
「もちろん、障碍者を罵っていた当人が障碍者になる。表になっていないだけで実在するだろう。私がここの住人なら、障碍者として振舞うだけだ。今までは健常者だった。だから健常者として振舞う必要があった。立場が変わってもやることは変わらない。」
「殺し合いのなかで、自分の生存を第一に考えればいい。人権擁護法もすぐできるだろう。あれを使えばいい。自分の命はどんな手を使っても守る。だから殺し合いがあればそれに参加する。今まではスレのなかで戦っていれば済んだ。これからは社会がスレに追いつく。(もちろん避けるべき未来だが。)そのときの自分の状況に応じて行動すればいい。」
「共生はただのきれいごとだ。中立はありえない。分断されている状況の、どちらか一方から攻撃する。どちらに付くかは自分が決めることではない。状況が決めるのだ。生きること、それが唯一の基準だ。」
「中絶スレは今もあるのだろうか。もう板自体を見なくなって4年になる。書込みがえぐすぎて見る気もしない。」
「とはいえ『クソが、少しは障害者の気持ちになってみろ。こんな姿に生まれたくて生まれたんじゃないことを、お前に分からせてやりたい。』『健常者に生まれた喜びを有難いとも思わず、障害者を差別する奴が俺は許せない。』この二つが最も印象に残った書込みだ。特に前者は、私がずっと言いたかった言葉だ。私の場合は、べつに障碍がある訳ではないんだが、棒のような手で、それが本当に嫌だった。」
「それもあって冬は好きだ。長袖になれるから。」
「こんにちは、と心にもないことを言う。」