はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

似ている人のアダルトビデオで抜いた ほか

 昨日のネタ。「美人教師 淫辱の家庭訪問 麻木明香」。punyu2munyuで見つけたサンプル。この間の日商の試験官にかなり似ている。それだけで抜けた。家庭訪問先で犯されるというありえない設定だが、今回は似ている人の裸が見られたからとりあえず満足だ。アダルトビデオは「ありそうかな?」という設定をいかに自然に見せるかが抜けるかどうかを分ける大切なポイントだと思っている。オナニーは擬似セックスだ。日常のセックスにはない設定を持ってこられても困る。
 あと、私は個人的にベッドでのセックスでは抜きにくい。喪男だからだろうが、女性と絡むこと自体にリアリティーが感じられないからだろう。結局はベッドに持ち込むことになるだろうが、私はその過程でむしろ抜けてしまうのだ。セックスそのものよりも直前の段階のほうが現実味を感じられてしまう。それゆえ女教師やコスプレなどの“装置”が必要なのだ。裸そのものへのリアリティーをさほど感じられない場合、裸を包む衣装や設定こそが現実味を生み出すことになる。そういう点で私は女性の裸に対して一種のインポテンツになってしまっている。
 ところで、いま喪男だからと言ったが、じつは喪男ブログを書くことにいささか飽きている。いわゆる“モテ”の人たち(この表現はかなり誇張があるように感じられる。モテなくても彼女・彼氏のいる人はごまんと居る。)に対して私たち“非モテ”の人間が非難や批判の声を上げる。毛沢東の言葉を借りれば「人民内部の矛盾」と言っていいだろうが、大衆どうしのなじり合いをやっているわけだ。私のように喪男としてのルサンチマンを蓄えた者は勢い恋愛経験者に罵声を浴びせてしまう。しかし彼らに言わせれば恋愛にも苦労がある。明るく振舞っているのも演技のうちだ。人を好きになるのは、人を求めないと孤独になるからだ。と返されるかも知れない。
 べつに喪男は人を選別したくないから喪男になったのではない。(そういう聖女ならぬ聖男も居るかも知れないが。)結果として彼女が居なかっただけのことだ。それが嘲笑や蔑視の対象になっているから私のように非難の声を上げているだけであって、本当は恋愛すること自体を呪う気はなかったはずだ。人を欲しているから人がいないことを恨む。動機の深い部分ではモテと非モテに違いはない。ただ出来るか出来ないかという差が生まれるだけだ。それは往々にして身体的特徴に基づいている。
 外見が悪ければ人も寄ってこない。(それは傾向であって、断言すべきではないかも知れない。)さすがに三十歳に近づけば自分が喪男であるという自覚も生まれてくる。自分でも外見が得意ではないと思う。ましてや他人は自分に厳しいだろうというわけだ。良き外見を出来るか出来ないか。その自覚が喪男かどうかを分ける。ちょうど童貞を笑う風潮も生まれている。そういう風土に対抗するという目的が、恋愛をする者たちへの非難として変換される。
 自分達のことを俗世の欲を断ち切った存在として崇め立てる。自己に対する聖化がなければ他者への攻撃を無条件に行なうこともないだろう。自分達を笑う者の中に彼らが含まれているのか、本当に検討したことはないはずだ。もちろん大衆社会はそのような検証を不可能にする。自分達を笑う“敵”はどこかに隠れているが、その場所を明示することはできない。代わりに行なわれるのは性質論だ。自分達を笑う者は恋愛を営んでいるに違いない。そう結論づける。
 少し考えれば、人を好きになって心が満たされた人間が人を見下しているようなら、そんな恋愛は大したものではない。それでも自分達以外の人間を敵にしなければならないとき、真っ先に認識されるのは集団を分ける表徴だ。出来るか出来ないか。神聖な存在か否か。出来ないことと神聖なことを混同すればただの思い上がりだ。出来なかったことは何も偉くない。
 人を傷つけなかった。確かにそうだ。誰も選ばなかったから。だが本当は選びたかったはずだ。そのことを隠しても、相手にはばれているだろう。恋愛できなかったことをどうしてくれる。どうにもできない。私は喪男のブログというものを意識して見たことがない。だから私のようにモテに敵対心をもつ喪男がどんな主張をブログで展開しているかを知らない。私はあくまで自分の経験で喪男を語っている。そこは承知して頂きたい。
 童貞を馬鹿にする風潮がある。恋愛を賞賛する風潮もある。それらが合せ鏡になっているように私には思える。それにどう抗えばいいか。それを考えているうちに時もたつ。いっそのこと鯛男になって出会いを探したほうが時間の有効利用にはなるかも知れない。(誰だ?無駄な努力と言った奴は。)
 それに、恋愛の賛美自体がじつは恋愛の空虚を示しているような気がする。幸せを人にアピールする人が幸せとは限らない。人に幸せだと思ってもらうことでやっと自分の幸せに納得できる。そういう人が増えているような気がする。とりあえず彼女・彼氏ができたから勝ち組。さすがにそんなお人は居ないと信じたいが、恋愛の賛美がそう思わせるのだ。孤独を癒すための過程がゲーム化している。好きでもないのに勝ち組。ようやく彼氏・彼女を見つけて、果たしてどうなったか。癒せなかったら負け組だ。でも童貞よりは増し。うん、なんか繋がっているような気がする。
 まあ俺達なんかずっと癒されてないけどな。動機が同じで、偶然が運命を分けた。偶然というのは生まれのことだね。外見さ。それを「恋愛はできて当たり前。できない奴は馬鹿。」と言われたら、そんなのはただの偶然だ。当然でも何でもない。ほんと、偶然に当然はない。自分達のやってることが当たり前だなんて思ったら思い上がりだよ。そこまでは正しい。それ以上のことを言ってしまうとさっきのように、恋愛している人みんなに喧嘩を売ってしまう。ただねえ、売りたくもなる。
 だってかわいい彼女と歩いている奴見たら腹立つじゃん。うらやましい。俺達も心のなかで喪女を捨象している。(そして喪女も喪男を捨象している。そこは非モテうしのタブー。)ああ、いいよねえ。かわいい彼女。そういう奴見たら書きたくなる。でも最初は童貞を馬鹿にする風潮に異議を唱えたかったはずだ。それがどこに怒りをぶつけたらいいか分かんないからカップルに向かうんだ。でも彼ら。本当に幸せなのか。それは分からない。作り笑顔なら誰でもできるから。
 まあ恋愛をしても孤独を癒せなかった。そういう人の恋愛がそのときは真剣なものだったとして、その営みを一方的に否定することはできない。しかし、恋愛を当たり前のことだと言われてしまえば、私は怒ってしまうだろう。当たり前という言葉の残酷さには慣れたはずなのに、どうしたことだろう。私に鯛男は向いていないと。そういうことかな。

私の恋愛資本主義への怨嗟は「私のオナニー日誌」や「ひとりごとならべ」でふんだんにやってます。ご興味のある方はどうぞ。内容はえぐいかも。

関連(拙稿):

(メモ)喪男が喪の記憶から抜け出すための方策
http://d.hatena.ne.jp/harunobu77/20100618/1276926503
早乙女ルイちゃんに囁きながら抜いている ほか
http://d.hatena.ne.jp/harunobu77/20100619/1276926609
ぷにゅむにゅで抜いた、の報告(2010年6月)
http://d.hatena.ne.jp/harunobu77/20100702/1278059777