はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

ひとりごとならべ(2012年6月24日)

「先日の台風で農道が冠水した。ここは低地帯だ。」
「昨日、猫の死骸を回収してもらうため市役所に電話した。」
「週明けから道で死んでいた猫だ。」
「誰か気の効いた人が通報してくれるだろうとやり過ごした死骸だ。」
「一昨日同じ道を通ったらあの猫がいた。」
「この間の台風で体じゅうが水を含んでいる。」
「毛皮を脱いだように毛が体から剥落している。」
「蛆虫の大群を初めて見た。」
「濡れた体をびつしりと這い回っていた。」
「それは小さな宇宙のようだった。すでに世界として完結していた。」
「私は寒気を覚えた。だが美しかった。」
「この美しい世界をそのままにしておこうと思った。だから朝は通報しなかった。」
「帰りに見たらまだ死骸があった。」
「通報するのを躊躇っているのだろうか。それとも原形を留めていないから放置されているのだろうか。」
「遺骸はすでにローストビーフのような赤みがかった飴色だった。」
「体を這い回っていた蛆虫は乾いた皮膚からは姿を消していたが、睾丸と首筋とを動き回っている。遺骸の周りを何匹かの蝿が飛んでいた。」
「遺骸はすでに命を入れる器ではなかった。ここに魂が入っていたことを信じるのは難しかった。言わば生肉が捨てられているに等しかった。」
「私は自転車を走らせた。原形を無くした猫のことは忘れていた。」
「代わりに蛆虫のことを考えていた。」
「小さな世界を這い回る勢いの良さに活気を覚えていた。」
「雨上がりの猫の肌は官能的でさえあった。蛆虫が猫の全身を舐め尽くすことは生涯の全てを賭けても不可能のように思えた。」
「自らの存在する世界の狭さを知らず、勢いのままに這い回る生命力に感銘を覚えた。」
「私は自殺した男のことを考えていた。」
「彼は自らを蛆虫と呼んでいた。」
「彼は本当の蛆虫を知っていたのだろうか。自らのことのみを思い生きることの醜さを知っていたのだろうか。」
「蛆虫は自らは倒れない。利己的であるがゆえに他者の収奪に明け暮れ自らを顧みない。」
「それゆえに蛆虫は馬鹿の集まりである。それゆえに蛆虫は生命力の塊である。」
「私はあの生命力に嫉妬していた。」
「君は本当に蛆虫だったのか。」
「彼は蛆虫になれなかった蛆虫だった。他者を収奪するのではなく、収奪する者を憎んでいた。」
「彼は利己的な人間のみが生きる権利を与えられている社会を拒否するために死を選んだ。」
「それは愚かなことだった。蛆虫に負けないために、本当の人間は我慢してでも生きるべきだった。」
「しかし利己心を捨てた人間が生命力を持つのは難しい。」
「かすかな光としてのみ存在する命は認識されることさえ難しい。」
「あの蛆虫の大群は生存のための競争をしていたのだろう。彼らの最終目標は蝿になることだ。」
「彼は蝿になることを拒んだ。」
「人間の身体は利己的な営みを宿命付けられている。身体を維持し、増殖するために他者との競争を求められる。」
「自らの罪を認めることで辛うじて人間は蛆虫への転落を免れている。」
「競争に破れた他者の尊厳を踏み躙ったとき、人間は蛆虫になる。」
「世界中の人間が蛆虫だらけに見えたのだろうか。彼は自らの命を消した。」
プレカリアートとして。童貞として。そして、人間として。」
「私はそれでも蛆虫の生命力に焦がれている。」
「蝿は堕落した人間の姿だ。しかし堕落の危険を犯さなければ私が生きものではなくなる。」
「蛆虫は猫の首筋に集っていた。そこは小さな水溜まりになっており、やがて干上がる。蝿になれなかった個体は死滅するしかない。蛆虫の楽園は姿を消すだろう。」
「猫は腐食を進めてゆく。すでに皮膚は腐っているが個体としての形を留めてはいる。やがて内臓が剥き出しになり、骨が露になるだろう。次にこの死肉をついばむのは何者か。気にはなる。」
「死骸を見つけた日に抱いた弔いの思いは消えていた。」
「追い抜きざまに唱えた念仏が虚しく思い出される。」
「猫はすでに見世物であった。」
「家に帰り猫のことを忘れ、一昨日は終わった。」
「昨日の朝はメロンを食べた。父の友人が送って下さったものだ。」
「その果肉の艶やかさが、一昨日の猫の肌に似ていた。」
「本来は弔われるべきはずの猫。車に轢かれ、何日も放置され続け、死骸を丁寧に扱われることもなく虫たちの好きにされている猫。それを淡々と眺める傍観者がいる。」
「もう、ここで終わりにしないか。死骸のその後が気になるというのは嘘だ。誰かが通報してくれるのを待っているだけだ。心では善人を装っているが、本当はただの意気地なしだ。それをもう終わりにしよう。」
「私はメロンを食べ終わると役所に電話した。休日の日直が対応した。」
「電話は淡々としたものだった。死骸のある場所を伝え、体が腐食し蛆にやられていることを知らせた。回収員は殺虫剤を用意するだろうと思った。念のためとして私の名前と電話番号を聞かれた。」
「明日あの道を通ったら猫の死骸はなくなっているだろう。腐食の過程に興味はあるが、傍観者であることの屈辱に耐えられなかった。それは自らの無能の表明だからだ。」
「電話を終え、体中に安堵感が広がった。辛うじて人であることの実感を覚えた。」
「そして蛆虫の生命力が強く印象に残っていた。」