はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

ひとりごとならべ(2013年3月16日)

「今日のメインは宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(文庫版)の感想。じつは今回はじめて一読した。同感と反感である。」
「『レイプファンタジー』論は神話の使いまわしにご注意という程度に軽く受けとめればばいい。つまらない話、時間の無駄になる話を仕分ける勘定科目だと思えばいい。」
「にしても『「難病や白痴の、弱い女子の精神的な欠落を男根で埋めます」とか、そんなベタなストーリー』(巻末インタビューより)という『レイプファンタジー』規定は雑すぎだろ。本人は笑ってもらうつもりで言ったんだろうけど、お道化ながらオタクを嗤ってんのよね。」
「『王と妃』は成り上がり物語だ。一種のサヴァイヴ系と言えるかも知れない。殺戮はプレイヤーを代えながら終わることなく続く。(殺戮への反省は権力を維持しているからこそ吐露できる。)しかし乱世の特徴として身分の低い者がのし上がるルートも用意されており、韓ミョンフェや柳子光は閉塞感に喘ぐ視聴者に社会変動(乱世)への希望を示している。韓や柳など、泰平の世では差別や疎外を受ける運命にあった者たちにとって乱世が自己実現の舞台になっているのだ。」
「確かに頷ける部分が多い。私たち(当時の)二十代が素朴に感じてきたことを徹底的に考察した結晶と言えるだろう。出版当時に読んでおきたかった作品だ。しかし(精神的引きこもりも含め)引きこもりたちの楽園(『AIR』等セカイ系作品)にレッテル(『レイプ・ファンタジー』)を貼る行為が果たして倫理的と言えるのかという疑問は残った。」
「また『ゼロ想』全体に流れる乱暴さがどうしても気になった。結論を急ぎすぎるあまり、議論がレッテルとの親和性を介して表現の暴力に堕落してしまっているのではないか。私の感覚がセカイ系作品のプレイヤー・読者のそれに近いからだろうが(私は自分が喪男毒男か分からないでいる)、作品の世界が陳腐で現実逃避的な設定で貫かれていようとも、それによって(社会的疎外から)現実では得られなかった充実感を味わえる人が確かに存在するのなら、外野の人間はたとえ嘘と分かっていても、それを否定し止める権利は(もちろん評論家にも)存在しないと考えるからだ。」
「『ゼロ想』は知的刺激に満ちており、何度でも読み返したくなる。かなり乱暴な筆致なんだが、同世代が共有してきた空気感を上手く押さえているからだろう。」
「エロゲと言われる作品はキャラに本気で萌えてしまえばかえって抜く(性交の対象として扱う)ことができなくなる。『AIR』に本気ではまってしまった男性ユーザーはキャラと本当にセックス(抜き)したんだろうか。キャラに崇高な気持ちを抱き、性欲の対象にできなかった。そんなユーザーとキャラとのプラトニックな関係に『レイプファンタジー』という言葉が当てはまるのか。レイプどころか、セックス(オナニー)もしてませんがな。画面を見てズボンを下ろさない男性にレイプの意志を読み取るとしたら、それは飛躍というものだろう。宇野さんはギャルゲーのプレイの仕方を知らないんじゃないか。本当に萌えるエロゲでは抜かない。こんなことはこうして言わなくてもオタクなら分かっていると思ったんだがね。なんというか、『AIR』でセックスを語ることじたいがナンセンスなんだ。私は『AIR』をプレイしてないんだけど(“国歌”しか知らん)、それでもユーザーがどんな気持ちでプレイしたかくらいは分かるよ。」
「本当の悲劇は、萌えに値する少女が近年は創作されていないことだ。もはや美少女はオタクの独占から離れてしまった。萌えキャラでさえ世間に吸収されてしまった。だからかも知れないが、オタク男性は自らの原体験を軸に結束し、非モテ運動として現実世界にコミットしはじめたんじゃないか。もはや美少女に萌えることがオタクのアイデンティティーではなくなった。」
「『王と妃』はハン・ミョンフェとユ・ジャグァンの話だ。彼ら成り上がりこそ本当の主役であり、首陽大君や仁粋大妃は権力闘争を勝ち上がったとはいえ彼らの前には生彩を欠いている。死に直面しているとはいえ、はじめから支配階級にいる者の戦いは興味をそそらないからだ。むしろ彼らの戦いに乗じてのし上がることのできた状況(乱世)こそ物語の魅力だ。」
「もう一年同じ会社でバイトを続けることになった。」
「笑いながら距離をとる人に悩んでいる。」
「正論では誰も幸せになれない時代だ。」
「おにいちゃんの萌えさがしはつづく。」
「『レイプファンタジー』という図式はオタクを他者として捉えたときにクリアな視界を与えてくれるが、オタクの視点から見れば彼らの繊細な神経に殆ど肉薄していない。見落としている部分が余りに多く、しかも議論の本質に関わる捨象を宇野さんは犯しているのではないか。」
「『レイプファンタジー』は使いやすい言葉(認識の単純化に役立つ)だが、もちろん女性の前では絶対に使えない。私の神経を疑われてしまう。」
「『レイプファンタジー』論に一理はあると認めてしまうところが私の毒男たる所以だ。女性に囲まれているうちに喪男としてのアイデンティティーが薄れていったのだと思う。もちろん生まれてこのかた彼女なしというのは内緒だ。男の正社員と話す場合でもモテなかったがいちおう彼女はいたという前提にしている。お願いだから恋愛の話はやめてくれないかとは思った。いくら話を合わせてもぼろが出そうで怖いからだ。」
「私が引っ掛かっているのは、『レイプファンタジー』論が人間性の底知れない深い淵を真に洞察しえているのかということだ。『レイプファンタジー』は余りに道具的な言葉だ。」
「『レイプファンタジー』にここまで引っ掛かるのは私が喪男ゆえだろう。捨象を見逃せないという点で喪男のほうが深い視点を有しているとは思うが、深淵を覗きすぎて幅の広い議論ができないという嫌いはある。しかし井のなかの蛙こそ空の青さを知っているのだ。必ず最後はオタクの正当性が認められるはずだ。もちろん宇野さんに言わせればこのような読み方は卑怯だろう。議論を否定しながら核心部分をこっそり盗まれるからだ。(こういう記述じたいが『安全に痛い』自己反省であると安全に痛く書いておこう。)この盗んだ核心部分がどう作用するかは分からないが。」
「じつのところ、私が本気で萌えた作品は『ラブひな』が最後だ。もう十年も萌えてないよ。最近は私の感覚に届く美少女がいない。私の感性が鈍ったのか、そもそもキャラが不作なのか。『こいつ、うそ臭いな』と思った瞬間に萌えが萎える。だからこそ“永遠”に萌え続けられる関係というのは奇蹟だと思う。萌えなくなったしキャラやアニメにも疎くなったが、私は奇蹟を信じてこれからもオタクを自称しようと思う。」
「今回から自己表示を独男から毒男に変更する。非モテから一歩踏み出すつもりだ。また自らを喪男とだけ書いてきたが、これからは『喪男あるいは毒男』とする。正確にいえば今の私は鯛男である。事実上のニート時代は喪男を自称することに疑問を感じなかったが、仕事に就くようになり心境に変化があった。恋愛の暴力性は当然批判されなければならない。しかし外の世界も旅してみたいのだ。」