はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

いま、漢詩を読んでるところ。李賀とか。

「もちろん蘇小小歌は李賀のラブオマージュだから、これぐらいの表現もありだ。彼自身は煙花ではないという自信があるのだろう。ところで、蘇小小の詩才と役人の資質を結びつけていたのであれば、李賀がフェミニストであるという解釈もありうるが、どうも違う。彼が権利を与えたのは、あくまでも女性美だ。(李賀は自らの才能を女性美にたとえている。)しかも詩人として蘇小小の上に立つことを忘れてはいない。この詩が孕んでいる緊張は、女性美と詩才との均衡から成り立っている。それを崩さないために、彼は詩人としての上下関係を守り続けているようなのだ。」
「もちろん李賀のルサンチマンの表れとも言える。煙花は彼を追い落とした連中を念頭に置いているのかも知れない。ただ、言葉の衝撃が大きすぎた。彼はこの言葉によって、多くの人間を切りつけた。男性を美と詩才でふるいにかけ、不美人の女性を切り捨てた。美を求める人間は、現実社会において疎外された傾向をもつ。性淘汰のなかで、ないしは栄達において。(ルサンチマンにまみれたほうが、美に鋭くなれる。)だから美を求める者は、自身が美しくなく、また力を持たないことを自覚している。暴露されないように黙りつづけてきたことだ。彼はこの耽美主義のタブーをみごとに破ってしまった。無力をさらされた人間が怒るのも無理はない。蘇小小歌が李賀の糟糠と呼ばれる所以である。」
「職業的詩人という概念のない時代である。彼の詩才は封建制の弊害を衝いているが、制度が滅びれば彼の自信はその社会的根拠を失うことになる。唐代にあって、詩才はそのまま役人の(つまり政治参加の)資質でもあった。その前提がなくなるのだ。社会の暗黒面をも描いているが、あくまでも天帝(秩序)を信じている。つまり既存の秩序によりかかってその逸脱を批判しているのだ。(そういえば終身雇用によりかかって格差社会を批判している人いますな。あれ、フリーターにとっちゃ迷惑なんだよね。おっと脱線。)彼に政治的立場を付することは誤った読み方だと思うが、あえて規定すれば体制内の改革派である。それも純粋な意味での保守主義(「保守するために改良する」)だ。文言から逆算すればそうなる。」
「それにも関わらず筆は破壊的なまでの鬼気を帯びている。たらればは無用だが、彼が現代に現れれば、単に自由をうたいあげるつまらない詩人になっていたような気もするし、もしくは彼の鬼気がそれを許さないような感じもする。彼の鬼気は一つの立場に収斂するようなものではない。(だから政治的立場を規定するのは誤りだと言った。)固定的な状況から生みだされた精神の流動が、再び固定に落ち着くのか、それとも流れ続けるのか、その行き先を探りたくなるのだ。蘇小小歌も、流動した彼女の精神に吸い込まれた李賀の精神が和音をなしている。そういう意味では、難しいことは不要で、単純に二人の精質をみるべき詩なのかもしれない。」
「秩序を愛するがゆえにその現状を許せないようだ。(憂国の士や革命家を引き付けたのはそのためだろう。)だから彼を持ち上げた者も社会の退廃を招けば、逆に突き上げられることになる。革命家や改革者も権力を握ればいつかは腐敗し、現実が見えなくなる。向こう側には必ず詩人が控えている。」
「人間精神は上昇への志向が強い場合、その機を失うと平面に流れる。時に力のある者(それは詩才でも女性美でも構わない)を見出しては部分的・個人的な上昇を試みる。(李賀「蘇小小歌」が典型。)封建制度に制約された者への同情はこうして生まれる。平面に流れた精神は平等主義の傾向を有しているが、同時に力のある者の自由をも求める。(封建的な重圧下にあると、自由と平等を同時に求める心性になる。)それは力のない者の永劫回帰を意味し、平等主義と衝突するものだが、封建制の枠内にある詩人にあっては、社会条件が変化しないかぎり、内なる自由主義と平等主義の衝突は起こらない。」
「李賀への印象は『あいつひとりで突っ走るからなあ』というものだ。ついでながら、彼にはバイセクシャルの匂いがする。あと、李賀とニーチェは親和性がある。力への憧憬という点で。」
「もちろん、身動きの取れない状況下では孤立した闘いを強いられる。ただ、彼の力である詩才は、その社会的根拠を崩されたときに無用のものと化す。だから、戦いきれないのだ。魯迅が『実際は決して(刺客になりに)行っていない』と言ったゆえんは、ここにあるようにも思える。彼はそのことにどこまで気づいていただろうか。」
「あえて単純化すれば、彼の詩は止揚への意思だ。何とでも化ける鬼力だ。(ほんと、詩の解釈は読者を反射する。)」
(「煙花」の解釈は鈴木虎雄氏に依る。「煙花」は「幽蘭」と対比的に用いられており、鈴木氏の解釈に妥当性があるように思う。)