はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

理想論ですかそうですか ほか

明るいナショナリズム

 ナショナルアイデンティティーは、民主党が政権についたことで選挙の重要な争点になるだろう。民族のあり方が一票によって左右されることになる。自民党時代には“当たり前”だったものも、これからは政党間の争論の対象となるのである。
 “当たり前の日本人”という言い方は、もはやできない。日本人から生まれたから日本人であるという、あいまいな自己認識ではすまなくなるだろう。これからの日本人は、日本人として自覚することによってはじめて日本人となり、日本人であり続けることができる。アイデンティティーはもはや自然の成果としてあるだけでなく、意思の結果となる。
 もちろん意思の持ち方がこれからは争点となる。日本人として意思をもつ者もいれば、地球市民としての意思をもつ者もいる。自らの意思を命題化して争論することになるのである。(これまでは、日本人は日本人であるという循環が日本人像として許されていたように思う。)

ネット民

民主主義国家では、政治に参加するために、まず市民である必要がある。ネット右翼もこれまでのように、慣習の代理人を自認しているだけでは、慣習とともに政治から疎外されざるを得ないだろう。これからは“日本人であるということ”を言葉にして示さないかぎり、日本人として、政治を語ることはできない。もはや、民族性を魂に求めるだけですむ時代は終わったのである。

分離

市民とは、言語空間のなかで政治的人格を形成し、自らをそれに同一化した人間をさす。つまり慣習から自己を分離することである。それは決して慣習の否定を意味せず、むしろ肯定にさえなる。もちろん慣習を合理性によって評価することで、それらを選択することにはなるが、批判である以上、否定にはならない。

歴史は弁証法なのです

「なぜ自民が負けたって、そりゃ、自民が腐りすぎていたからさ。小泉改革でさえぶっ壊せなかった既得権益ってのがあって、それを麻生さんまで引きずってしまった。それを民主が壊すっていうんだから、あるイミ郵政選挙の延長さ。まあ、自民党に自浄能力がなかった。だから存在そのものがオウンゴール状態だったわけで、民主党がここまで勝ったとしても、大きな顔はできないはずだよな。」
「まあ、民主党さんは正社員の既得権益(と、フリーターの目には映る)の擁護に必死ですけどね。それでもフリーターの時給を1000円にしてくれるっていうんですから、実際にやったら見直しますよ、たぶん。まあ、ほかに余計なことさえしなければね。」
「今回の選挙が郵政の延長だっていえるのは、実は竹中平蔵さん、暗に民主を支持してたんだよな。見たよ、『ちちんぷいぷい』(毎日放送)のインタビュー。選挙前にはっきり言ってたよ。民主のマニフェストは評価できるところが多いって。そのくせ自民には口を濁すんだから、そこは察するところだよな。」
「それはそうと、どこか正社員とフリーターのカベをぶっ壊すっていう政党でないかなあ。まあ、選挙で負けますかな。だって正社員って多勢だもん。ベタに不利なことはでけんわなあ。」

理想論ですかそうですか

 権力の批判なんて許されないから、世直しの人任せ。それは今回の選挙で終わりました。これからは自分の投票行動がもろに生活に反映します。少ない財源のなかで、誰が優先されて誰が取り残されるのか、それもはっきりとします。
 その時、取り残された者は何もしないのではなく、世直しを人に任せるのではなく、声を大きくして政治プロセスに参加することが求められるのです。もはや旧来の慣習に甘えて、大衆の一人として埋没できる時代は終わったのです。声を出さなければ忘れ去られてしまいます。誰かに代わりに政治に参加してもらうことは、もうできません。
 自らが主体的に行動することを、日本でもついに求められるようになりました。今回の選挙は、政治文化の変化をも示しているのです。これまでの日本には、政治はだれか他の人が担うものであり、しかも予定調和的に、いちおうは国民の声が反映されるという共同幻想が存在していたように思います。それは長い時代に培われた慣習として、政治文化の一部でありました。
 もともと権力への批判が許されていなかった状況から日本の政治文化は始まりました。しかしこれからは投票がそのまま意思となり、政治の優先順位を決めるのです。権力に甘えることができなくなったぶん、主体性のある国民になることを求められているのです。

愛国無罪の時代

民主党が政権についてふと思った。ナショナリズムがそのまま反権力となる時代が日本に到来した。日本人が愛国無罪を唱えるときが来たのだ。民主党への期待が失望に変わったとき、あの光景が見られるかも知れない。

ひきつづき国民

自民党はいわば与えられた権力だった。それゆえに権力への監視も鈍感になりがちだった。しかし、民主党は国民みずからが作った権力だ。そこがこれまでと決定的に異なる。国民は権力を作り出した責任を、権力の監視によって引き続き果たさなければならない。

儀式にもならない

戦争体験者が生きている間は、彼らに謙虚であるべきだと思うから、九条も消極的ながら支持してきた。でも、もう、という思いもある。あの戦争を生身で体験せずに九条を支持するというのは、虚構性をそれと分かって崇めるようなもので、もはや儀式にもならない。体験者にとって九条と戦争は、身体レベルで一体化していた。同じようなリアリティーを九条にもてといわれても、戦後32年目のわたしには、無理なのである。

さいごに

私にとっての政治は、私が仕事につくことだけだ。しかし、生活がよくならないのであれば、ナショナルアイデンティティーで選ばざるを得ないだろう。民主党は、いうまでもなく除外である。

ついでに

慣れないことをすると、肩がこる。私には幼女ブログが向いていると思った。ただ、選挙は単なるフィーバーではない。衆院選が立てつづけのオセロゲームで、どうも恐ろしい。弁証法にしても、あまりにも分かりやすすぎる。私は民主党には楽観視していない。いつか失望される時期がくるだろうと思っている。そのとき、歴史はどのような審判をくだすのか。自民党でもだめ、民主党でもだめ、となると、日本の民主主義は手詰まりになる。きな臭い想像だけが頭をよぎる。