はるのぶのつれづれ

幼女の子宮で泳いでいた頃の記憶

“壁”にかこまれて生きているような印象(当時32歳)

 もはや修復しきれないほど広がった穴を前に立っている。開いているという事実。それが何に対する言葉なのかも知らずに立っている。穴の開いている“モノ”はそもそも何だろうか。分かりやすいから“壁”と言ってはいるが、繭とも子宮とも、皮肉まじりに棺桶に譬えたこともあるがどうも実体を掴めない。感覚だけがある。目の前に開いた穴が少しずつ広がり、そこから見える光景に恐怖を感じて、腹の底から震えているのに出られない。監禁されているような感じだが、ここに悪意の者はいない。
 かれこれ二年前から予感だけはあった。生きてゆくために破らねばならないものに囲まれている。自分から一歩を踏み出そうとしたこともあった。結局は思ったきりで時間だけが過ぎた。この二年の間、見えてくる他人の姿が少しずつリアルに映り、死んでゆく者の過程さえありありと印象づけられて目が離せない。何とかしなければ、の言葉がスローガンで止まり続ける間も“壁”は風化を続けている。(あるいは、誰かが故意に外側から壊しているのかも知れない。外から見て笑う露悪癖の餌にされているのかも知れない。)
 外に人がいることだけは確かに分かるが、明らかに敵意を持った連中がここから出る瞬間を待っている。あたふたして同じ場所に戻るのを楽しみにしているようだ。好意的な者でさえ私を見て通り過ぎるだけ。外の人間はそんなものだと思っている。外の様子が痛いほど分かるからここにいるようにさえ思う。自分から一歩を踏み出すことに意味があるはずなのに、人から無理に追い出される。それが耐えられないのだ。そうこうしているうちに、“ここ”それ自体が崩れ去ろうとしている。待ってくれ!私は必ずここからはい出すから、崩壊だけは許してくれ!まだ心の準備ができていない。完璧な状態で人前に出たい。それまで修行を積んできたはずだ。
 確かに2ちゃんねるは楽しかった。実況板にはまったこともある。それはだがお遊びだ。本当にすべきことを忘れたわけではない。私は、(突然記憶を失った。)いや、わざとではない。待ってくれと言っているだろ。人に崩されるのは嫌なんだ。勝手に崩れるのも嫌なんだ。そうだ、穴を塞げ。とどれだけ言ったか。分かっている。もう塞いじゃだめだ。崩壊の早さより速いスピードでここを出なければいけない。そんなことは何度も言った。崩壊と言っても実は突然その事実を告げられるものだろう。崩れる崩れないと思っているのは予感だ。まだ時は来ていないから大丈夫だ。と安心すれば忘れられると思ったこともある。
 とりあえず出ようと言いたいが、なぜ“繭”が生まれたか分からないと上手く出られそうもない。ずっと心地よかったような記憶はある。母親が特に優しかった。今でもそうだが、いつまでもそのままでいられるような感覚を明らかに抱いている。それこそ成功パターンが忘れられないように、“ここ”にいるだけで守られるし温められるような安らぎだ。この凄まじいマザコン振りを直さない限り出られないだろう。とりあえず家から出ろ。ここまでは何度も反芻した。問題はどうやって出るか、つまり自活するかだ。
 一人で暮らせるだけの収入を得られるか。それが分からなければ結局親と同居したまま、危機感も忘れる。後でまた慌てなければならないことになる。自活できなければ“壁”が壊れて圧されて死ぬ。(私の恐怖観は先の大震災のイメージを引きずっている。震度6を体験した時は死を直感した。)実際の死に方は(極端な話であって欲しいが。)仕事が見つからないことによる困窮死だろう。残念ながら我が国の世論は貧困者に辛い。自活できる仕事を探しているだけでなぜか怠け者と呼ばれる。その中に私も含まれているようだ。私は確かに仕事をしていないからそう言われる。しかしそういう仕事から意図的に遠ざけられているというのが正直な印象だ。(だから外がいやになる。)
 とりあえず落ち着いた。まあ、壁はいいスクリーンで、外で幸せそうにしている連中の様子を“そのまま”映している。楽しそうに笑っていれば楽しく映し、悲愴であれば辛く映る。悲しみはそのままだろうが、幸せそうな顔は作り物だろう。ああいう顔に私はリアリティーを感じない。それなのに「楽しい」と口に出しているのを見ると死んで欲しくなる。真正直に言葉を受け取ってそこに怒りをぶつけようとする。これは徒労だろう。あれでさえ、嘘の一種なのだ。人は嘘をつかずには生きていけないところがある。ストレートな動機は生きるためであろうし、人と比べて幸せであると思い込みたいからでもある。その相手こそ実は不幸かも知れない。人の幸福を想像して怒るのは自分が疎外されているからでもある。それでもなお、演出された幸せを見ぬかなければ、疎外感を増すばかりでなく怒りを向けられたほうも身に覚えのない幸福を責められることになる。べつに恋愛のこととは言っていないが、ばればれだろう。
 それらの幸せに対抗するわけでもないだろうが、誰かを捕まえてしまいたくなることがある。壁に囲まれて暮らしてくれる人を探している。母親の代わりをしてくれさえすればいい。こうやって一日でも長く壁を続けようとする。そのうち私が壁になるかも知れない。S・カルマ氏。それは措いて、幼女のほうが心地いいだろうが、さすがに子供過ぎても困る。相手は十歳前後。それこそあのお料理少女をここに呼びたい。彼女の子宮には私が眠っている。だから呼んでも罪にはならない。でも分かっている。誰が来てもここはいずれ崩れ去る。せめて死ぬまで持ちこたえられるよう、誰かの子宮で補強したいのだ。
 男が若い女を求めるのは死の恐怖を感じているからだ。女の子宮に眠りなおすことで、命に開いた穴を塞ぎ止めたいからだ。生きた子宮を求めているから男は若い女を求める。命そのものでさえそうだ。私のように誰か(社会)に殺されかけている人間はより一層若い女と子宮を求めようとするだろう。それが11歳であったり、13歳である。若くて少し大人な女の子がいい。ただ抜いているだけでは物足りないから連れて帰る。せめて抜きの設定だけでも二人暮らしを始めたいのだ。
 それはさておき、ここが壁であることを悟ったのは、生まれた時からの母の継続を覚えたことだけでなく、(いずれ出なければならないのを居座っていたら余計出られなくなり、温かい子宮から辛い絶壁に転化していた。)活動的、性的な衝動が高まっているからだ。それまではここにいるだけでよかった。満足はしていなかっただろうが、居心地はよかった。こんな歳になり(書いている当時―また歳をとるから―は32歳だ。)、さすがにそれも飽きたようだ。遅いと思われるだろうが、人より十年遅れの人生から社会を見渡すと、活動と性の場はすでに同年代と私より若い者に埋め尽くされている。本当はあの場に行くことで死の恐怖が人並みに(これはよく聞く言葉だ。)和らぐことを期待できるが、あきらめて壁にいればここもひびが入る。やがて崩れ去り棺桶となれば子宮、壁、棺桶の転化過程は完了だ。と呑気に書いている場合か。何の構成もなしに思いつきだけで書くな。阿呆たれ。

こうも思う。

壁を考えていると壁から出られない。という皮肉。
脱出の模索が観念の世界に留まっているうちは、
必ず出られない。それは、
自活から逃れる(母から離れない)ための
時間稼ぎでしかない。